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こちら中国ではよく言われることである。
契約書はまさに多岐に渡る。
日常生活上では住居の賃貸契約書からはじまり、業務上は売買契約書や労働契約書に至るまでその数は実に多い。
キリスト教の世界では、神との契り(ちぎり)という高い概念であらゆる契約書を理解するようだ。
この神との契りとしての契約書と言う概念すら、日本人にはなかなか解りつらいところであろう。
ましてやこちら中国では契約書の背景にこのようなキリスト教的概念はない。
その背景にあるのは契約書に記載されている双方の権利と義務だけである。
この権利と義務を文字に落として、その範囲の中で双方の合意を実現する。
このような契約書では、限界があるであろう。
50ページにも及ぶ契約書では、いかにも重い。
文字になっていない部分はキリスト教的概念か、日本人のように生真面目さが必要であろう。
契約締結に至る前の見えざるインフラの違いである。
中国では表面的には契約社会になっているように思えるが、実際には、かなり異なる局面が多い。